ユダヤ人難民 第二次世界大戦中の1940年、ナチスからの迫害から逃れてきたユダヤ人は、上陸の地−敦賀に自由と平和を実感しました。

「ナチスに追われ命がけで逃げてきた ヨーロッパには安住できる所がどこにもない。」
ドイツとソ連のポーランド侵攻 ドイツ軍・ソ連軍のポーランド侵攻(1939年)
 1939(昭和14)年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、同年9月17日にはソ連軍が東から攻め込みます。両国の結んだ不可侵条約の秘密条項で、分割・占領されたポーランドのユダヤ人は、行き先国の許可が取れないまま立ち往生してしまいます。ユダヤ民族の根絶政策を進めていたナチス・ドイツ軍の進撃のためヨーロッパはふさがれ、唯一彼らに残された逃避ルートは、シベリア経由で日本に渡り、そこから第三国を目指すものでした。

(地図は、ドイツ軍・ソ連軍のポーランド侵攻(1939年))
唯一の逃避ルート・シベリア鉄道
 ドイツ軍の電撃作戦でフランスを始めデンマーク、ベルギー、オランダなどが占領され、イギリスも本土上陸の脅威にさらされます。ポーランドに居たユダヤ人たちは、中立国のリトアニアに逃げ込んでいました。しかし、彼らはソ連軍がリトアニアに進駐し、併合すると国外に出られなくなり、ナチスから逃れえたとしてもシベリア送りが待っています。もう、彼らはリトアニアに留まることができず、日本の通過ビザを発給できるカウナスの日本領事館を目指しました。
ユダヤ人難民逃避経路
助けを求める難民たち
 1940(昭和15)年7月18日木曜日の早朝、リトアニアのカウナスにある日本領事館前に大勢のユダヤ人難民が押しかけました。杉原領事代理は群衆から代表者5名を選ばせて用件を聞いたところ、日本通過のビザ発給を求めてきたことがわかりました。しかし、杉原は小人数であれば、自分の裁量で出せるが、大勢となると本国の許可が必要と外務省に判断を求めますが、返事は「NO」でした。彼は自分自身や家族への危険、訓令違反の処分も覚悟してビザ発給を決断します。

 
日本までの苦難の旅
 カウナスでやっとビザを手に入れた彼らは、その後も過酷な運命に翻弄されます。シベリア鉄道でウラジオストクを目指す途中の駅では、停車するたびにソ連の秘密警察が乗り込み貴金属や時計などを奪ったり、何人もの青年が理由もなくシベリアへ強制労働に連行されたりしました。死ぬような思いでウラジオストクに到着して、日本へ向け連絡船に乗るときには、ユダヤ人難民の大半は所持金をはじめ金目のものはほとんど持っていないという状況でした。

(写真は、ユダヤ人難民たちが上陸した頃の敦賀港)
ユダヤ人難民たちが上陸した頃の敦賀港
「ツルガの町が天国に見えた」「私たちは、何百年経とうと決して敦賀を忘れない。」
続々と上陸する難民たち 難民上陸を報道する朝日新聞(昭和16年6月6日)
難民上陸を報道する朝日新聞(昭和16年6月6日)
 杉原領事代理が発給した「命ビザ」を持ったユダヤ人難民が集団で敦賀港に上陸するのは、1940(昭和15)年9月29日からと考えられます。その後も多くのユダヤ人難民の上陸が続きますが、翌年の6月22日には、ドイツがソ連と結んでいた「独ソ不可侵条約」を破り、ソ連を攻撃しました。これによって、シベリア鉄道を使った欧亜連絡が途絶え、同年6月14日の河南丸の入港を最後に、ユダヤ人難民の敦賀上陸も終わりました。
難民上陸を伝える新聞報道
 地元の福井新聞に、昭和15年8月13日から翌年6月14日までの掲載記事に「難民部隊続々敦賀に上陸」や「天草丸けふ五時入港ユダヤ人350名を乗せて」などの見出しが見られます。また、朝日新聞社は敦賀に特派員を送り、特集「世界の敦賀」の中で「・・下の甲板にはよごれ風呂敷のやうな洋服を着たユダヤの流民・・二、三個のトランク、それも開いて見るとガラあきで・・」と上陸する難民の状況を伝えています。
難民上陸を報道する福井新聞(昭和16年2月15日)
難民上陸を報道する福井新聞(昭和16年2月15日)
優しかった敦賀の市民
 過酷な状況で上陸するユダヤ人難民と敦賀市民との間には心温まるエピソードが残っています。それは、ひとりの少年が難民に果物の入った籠を持って近づき無償で置いていったり、港に近い銭湯の主人は彼らの姿を見るに見かねて浴場を無料で開放しました。また、駅前の時計店の主人は、彼らが空の財布を見せながら空腹を訴えたため、気の毒に思い彼らの所持していた時計や指輪などを買い取り、さらには台所にある食べ物を渡しました。

(写真は、難民たちが歩いた気比神宮前の神楽通り)
難民たちが歩いた気比神宮前の神楽通り
安住の地を目指して
 敦賀に上陸したユダヤ人難民たちは、日本で唯一のユダヤ人組織の「神戸ユダヤ人協会」を目指しました。彼らの滞在した神戸などでの生活は、ヨーロッパやシベリアでの逃避行に比べれば大変快適で平和でした。しかし、彼らの持っているビザは、あくまでも日本通過ビザであって長期滞在が許されませんでした。そして、彼らは、それぞれ神戸や横浜からまだ見ぬ安住の地を目指してあわただしく船出をしました。
ウラジオストク〜敦賀
はるびん丸
はるびん丸
(総トン数:5,167トン)
気比丸
気比丸
(総トン数:4,553トン)
天草丸
天草丸
(総トン数:2,345トン)
河南丸
河南丸
(総トン数:3,310トン)
神戸〜安住の地
鹿島丸
鹿島丸(総トン数:10,513トン)

横浜〜安住の地
平安丸
平安丸(総トン数:11,614トン)
手に入れた自由と平和
「日本に着いた夜、敦賀の宿は一晩中にぎやかだった。畳の上の温もりがうれしかった。」
横浜港からアメリカに向かう船上のユダヤ人家族(1941年)
横浜港からアメリカに向かう船上のユダヤ人家族(1941年)
「人道の港」市民の証言
市民の証言


ユダヤ人難民が上陸した頃の敦賀港

ユダヤ人難民が宿泊した若六旅館
ユダヤ人難民の目撃地点と主要コース
ユダヤ人難民の目撃地点と主要コース

ユダヤ人難民が乗車した敦賀駅

ユダヤ人難民が上陸した頃の市内の風景
「奇跡の時計」
 ヨーロッパから敦賀まで、約1万キロ以上を旅した時計。過酷な旅の途中でユダヤ人難民たちは、大切にしてきた時計や貴金属を食べ物と交換したり、命と引き換えに相手に渡したり、さらには略奪にも遭いました。
 3度の空襲を受けた敦賀。この時計は、そのような運命に翻弄されながらも、彼らが「ヘブン」と言った私たちの町、敦賀に残っていることは、まさに奇跡ではないでしょうか。
敦賀に残された時計
 昭和15年の秋頃から、港都に船が着くとユダヤ人難民たちが、渡辺時計店に時計や指輪などのを売りに来ました。店主の渡辺喜好さんは、気の毒に思い買い取っていました。
当時、高等女学校に通っていた娘のヒサさんは、父親にねだって可愛らしい女性用の腕時計をもらいました。空襲のため、買い取った多くの時計や指輪などは店と共に燃えてしまいましたが、この時計だけはヒサさんが大切に持っていたため、焼失を免れました。彼らが残していった唯一の時計は、今でも敦賀での出来事を無言のうちに伝えています。 
渡辺時計店
渡辺時計店
奇跡の時計

奇跡の時計

所有者の石田ヒサさんより
敦賀市へ寄贈されました
渡辺時計店
 渡辺時計店は、昭和9年に元銀行員であった渡辺喜好さんが敦賀駅前に店を構えました。渡辺さんの家族は、昭和20年の敦賀空襲で店が全焼したため郷里の美浜町へ帰りましたが、渡辺さんの人柄が偲ばれるエピソードが残っています。渡辺さんは、郷里の学生が県立敦賀商業学校に入学するために必要な身元引受人をよく引き受けていました。また、小浜線の最終電車に乗り遅れた人を店に入れ、冬は火鉢を出して翌朝の始発まで話し相手になっていました。渡辺さんは面倒見がよく、義侠心のある、やさしい人柄でした。
「命のビザ」
 「命のビザ」。それは、リトアニア・カウナス日本領事館の杉原千畝領事代理によってユダヤ人難民に発給された日本通過ビザをいいます。
 ここでは、ひとつの家族に発給された、いわば彼らの命をつないだビザ(査証)を紹介し、皆さんに「命」の重さ、大切さについて考えていただければと思います。
発見されたシャグリン氏の「命のビザ」
 ビザの持ち主、マルセル・シャグリン氏は現在イスラエルのジホロン ヤコブに住んでいます。彼ら一家は、ナチスの手から逃れるため、1940(昭和15)年7月30日にカウナスの日本領事館で杉原千畝から1枚の日本通過ビザをもらいます。両親に手を引かれ、姉と一緒に敦賀の港に上陸したのは、彼が4歳の時でした。その後、日本を離れた一家は中国の上海へと渡ります。そして、彼らに安住の地が見つかるでには、多くの苦難が待っていました。
シャグリン氏の「命のビザ」
シャグリン氏の
「命のビザ」
シャグリン氏家族写真
シャグリン氏の家族写真
シャグリン氏の住む町
 ジホロン ヤコブは、イスラエルの経済・文化の中心地テルアヴィヴから北へ約60kmにある農業と観光の町です。ワイン作りが盛んで、イスラエルで有名なテシビワイン会社はジョナサン・テシビがこの町で基礎を作ったことで知られています。また、この町の中心的な通りを“ワイン通り”と呼び、多くのカフェや宝石店、骨董店、そしてブティックなどが建ち並び、歴史が豊かで風光明媚なこの町には多くの観光客が訪れます。

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