ユダヤ人難民目撃証言 その1
学校の帰りに敦賀駅で見た 証言1
 滋賀県の中学校に通学していた中学3か4年生(14か15歳)の頃敦賀駅で目撃した。たしか、土曜日の午後2時か3時頃だったと思う。沢山の外国人がいたので、何なんだろうと思った。友達2〜3人で現在の平和堂の交差点から桜並木を気比神宮へ歩いて自宅(入舟町:現金ヶ崎町)へ帰える時、反対方向から何十人という外国人が駅の方へ歩いていた。その時の印象は、変わった人たちだなあと思った。家へ帰ったら、親父がおまえが見たのはユダヤ人だと言っていた。その後、新聞を見てユダヤ人だと思った。
 その当時、敦賀港へ入ってくる外国人は皆りっぱな服を着ていたので、哀れな感じがした。ユダヤ人は男性は黒い服を着ていて、女性は赤い服を着ていた。小学生くらいの子供もいて、人力車には2〜3人の老人が乗っていた。熊谷ホテルに泊まっているとも聞いた。ユダヤ人が歩いているときは警察官が見張っていたが、厳しいものではなく反対側を一緒に歩いていた。警察官の人数もチラリチラリで、ユダヤ人もブラブラと歩いていた。見た時期は、暖かいときから次の年の春までだった。2〜3回くらい見たような記憶がある。
真っ赤な服や動物の襟巻きに驚いた 証言2
 小学校の5年生(10歳)の時、確か9月か10月頃に旧北津内(現本町1丁目)宮の湯の前にあった薬局の前をユダヤ人が歩いているのを見た。
 大勢の老若男女が気比神宮から敦賀駅に向かって桜並木の道を数珠繋ぎで歩いていた。着ているものは、ボロ着ではなく普通の服だった。ただ手に荷物は持っていなかった。中に白髪のおばあさんがいて真っ赤な服を着ていたのが印象的だった。日本人はあんな原色の真っ赤な服は着ないのでびっくりした。
 また、もう一人の女性は、まだ暖かいのに、首にキツネかタヌキの襟巻きを巻きつけていて、その足がチラリと見えたので、子供心に気持ちが悪かった。家でおじいちゃんに「この人たちは何?」と聞いたら「ユダヤ人といって国のない人たちだ」と教えてくれた。おじいちゃんは、以前公務員で官報を取っていたので知っていたかもしれない。
 みんな無言で、もくもくと歩いていた。警官は見えなかった。見たのはこの1回きりだった。おじいちゃんの話を聞いて、その時かわいそうに思った。
ナイフで器用に削って食べていた 証言3
 昭和15年の10月頃に敦賀駅でユダヤ難民とおぼしき人たちが沢山いて、その内の1人が駅前広場に座り込んでいたのが印象に残っている。その時は、自分は敦賀商業学校の2年生だった。座り込んでいたのは、年齢はわからないが中学生くらいで黒い服を着ていたように思う。トランクを開けて中から太い棒状のようなものを取り出し、ナイフで器用に手前に向かって削って食べていた。今から考えるとソ連に抑留されウクライナにいた時に食べたことのあるカルパス(乾し肉のようなもので、1〜2ヶ月ぐらい日持ちする)ではなかったかと思う。
旅館に泊まっていた 証言4
 まだ、数え年で15歳の昭和15年の晩秋か初冬くらいで気候は寒かったが、雪はなかったように思う。敦賀につぎつぎと上陸したユダヤ人が当時の常盤区天満神社(現栄新町)付近の旅館に泊まったことを覚えている。
 私はその旅館の近くに住んでいて詳しいことはわからないが、旅館の名前は「若六」と言う旅館で、天満神社の東隣にあった。その旅館の女中さんが「うちに神戸へすぐに行けないユダヤ人が泊まっている」と言っていたことを記憶している。天満神社の前の通りは大変にぎやかで、大きな旅館や料理屋があった。また、天満神社の裏は遊郭で、この当時はまだ夜中でも三味線や太鼓、笛の音とともに歌声や笑い声が絶えなかった。これは噂に聞いたことで、はっきりとは断言できないが境区にあった元禄理髪店の近く、あるいは小林旅館(現栄新町)の近くの小さな木賃宿にも泊まっていたという。
朝日湯が無料開放した 証言5
 昭和16年の早春頃ではなかろうか。直接見たわけではないが、当時大内町(現元町)にあった銭湯の「朝日湯」が、一般入浴営業を一日だけ休業してユダヤ人難民に浴場を無償提供したことは事実である。私たちは垢だらけの外国人の入浴した風呂は汚いし、気持ちが悪いと思ってしばらく遠いところにある銭湯まで、わざわざ歩いて行った事があった。
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