杉原千畝コーナー

「苦慮、煩悶の揚句、私はついに人道、博愛精神第一という結論を得た。」
杉原千畝の略歴
 杉原千畝は、1900(明治33)年1月1日に岐阜県加茂郡八百津町で生まれました。父親は成績優秀だった千畝を医者にしたかったのですが、彼はどうしても好きな語学を活かした仕事に就きたく、18歳の時、早稲田大学高等師範部英語科に入学しました。その後、外務省の留学生採用試験を受け合格します。ただ、面接の時に試験官からすすめられたロシア語を選択したことが、それからの彼の運命を左右するものになります

(写真は、カウナス日本領事館の杉原千畝領事代理)
杉原千畝領事代理
杉原千畝の決断
1940(昭和15)年7月18日の早朝、ユダヤ人難民たちはナチスの魔手から逃れるため、カウナスの日本領事館に通過ビザを求め押し寄せました。しかし、杉原領事代理はビザを数人分位なら自分の裁量で発給可能だが、何百・何千枚となると外務省の許可が必要なため、何度か外務省へ実情を打電しました。だが、最後の返事も「ビザ発給はならぬ」という回答でした。そして、悩み苦しんだ彼の決断は、外務省に背いてビザを発給することでした。
カウナス日本領事館
カウナス日本領事館
カウナス日本領事館前でビザ発給を訴えるユダヤ人たち
カウナス日本領事館前でビザ発給を訴えるユダヤ人たち
書きつづけた命のビザ
 ユダヤ人難民に日本通過ビザの発給を決断した杉原領事代理は、領事館の閉鎖が迫る中、一日平均300人の発給ノルマを自分に課し、一人でも多くの人たちを救うため書き始めました。しかし、すぐに万年筆のペン先は折れ、替わりのペンは使い慣れないため指に豆をつくり、腕の痛みを我慢しながら書き続けました。さらに、領事館の閉鎖後も市内のホテルで、またカウナス駅で、さらにベルリンに向かう列車の中でも、通過ビザに代わる「渡航証明書」を書き窓から渡しました。

(写真は、日本通過ビザ)
日本通過ビザ
外務省に残る発給記録
 杉原千畝は、チェコスロバキアのプラハに赴任していた1941(昭和16)年2月5日に外務省の松岡大臣に日本に続々と上陸してくるリトアニアからのユダヤ人の数、氏名、行く先、査証月日について電報で報告をしています。それには、「リトアニアならびに旧ポーランド人に与えた通過ビザ2,132の内、ユダヤ系約1,500と推定する」としていますが、これは意識的にユダヤ系の数を控えめに報告していて、事実はほとんど全てユダヤ避難民でした。

(写真は、杉原千畝手記の一部)
杉原千畝手記の一部
敦賀に上陸した難民の数
 杉原ビザを持って敦賀に上陸したユダヤ人難民の数については、正確な統計資料が見あたらず、わかっていません。ただ、1941(昭和16)年2月までの新聞記事から推計すると累計5,855人となり、他の新聞では総計は3,832人と書かれています。さらに10月24日の新聞では「昨年夏以来、動乱の欧州からシベリア経由で敦賀に上陸し、神戸から米国方面を中心に、各国に流れていったユダヤ人難民は、六千人・・」と報じています。
敦賀港に上陸したユダヤ避難民入国者表
敦賀港に上陸したユダヤ避難民入国者表
杉原リスト
杉原リスト
覚悟の決断
「一分間の休みもなく、ユダヤ難民のための日本通過ビザ発給作業を開始した。」

杉原千畝領事代理
カウナス日本領事館の杉原千畝領事代理
外務省から杉原領事代理に送られた電報文
外務省から杉原領事代理に送られた電報文

ビザ発給報告書
ビザ発給報告書

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