東洋の波止場 古来より、海と陸の交通の要衝であった敦賀港。1899年に開港指定を受け、ヨーロッパとの交通の拠点でもあった国際港の敦賀に出会うことができます。
大陸への玄関・敦賀港
   古来より、海と陸の交通の要衝であった敦賀港は、1902年から1941年にかけて、ヨーロッパとの交通の拠点でした。
敦賀港を通った人々
外国人

世界的冒険家 ロアルド・アムンゼン〔嘉義丸で出港、帰国〕/1927(昭和2)年7月

ドイツ人建築家 ブルーノ・タウト〔都市計画の世界的権威、故国ドイツから亡命しシベリア鉄道を経由して敦賀へ上陸〕/1933(昭和8)年5月
   

鳳山丸で敦賀港に上陸したロシア観光団77名一行/1911(明治44)年6月

日本人

満蒙開拓青少年義勇軍壮行式と敦賀港出港風景/1938(昭和13)年頃

山本条太郎 南満州鉄道総裁〔在任期間:1927(昭和2)年〜1929(昭和4)年、福井県出身〕
市川左団次〔モスクワ公演のため敦賀港より渡航〕/1928(昭和3)年
松岡洋祐 全権大使〔天草丸で国際連盟総会に出発〕/1932(昭和7)年10月
重光葵 ソ連大使〔モスクワに赴任するため敦賀港を出発〕/1938(昭和13)年
   
敦賀港を通った船と貨物 敦賀港は古くからの国際貿易港 日本の表玄関として活躍しました。
大陸貿易主要貨物 貿易相手国:朝鮮・満州・ロシア及びヨーロッパ諸国
1899(明治32)年頃〜1945(昭和20)年

 敦賀港からは、主に生野菜、ミカン、リンゴ、缶詰、和洋酒、ビール、医薬品、陶磁器、わら工品、漁具、洋紙、鉱物油、電気機器、産業機械などが輸出されました。

 

 敦賀港へは、主に大豆、大豆かす、トウモロコシ、コウリャン、小麻子、小麦、塩干物、魚肥、岩塩、活牛、石炭、黒鉛、銑鉄、木材などが輸入されました。

昭和の連絡船から

「満州丸」(総トン数:3,054トン)

「さいべりや丸」(総トン数:3,462トン)

「はるびん丸」(総トン数:5,167トン)

「天草丸」(総トン数:2,346トン)
敦賀港のむかし
江戸時代以前の敦賀港
 敦賀港は、往古「笥飯浦(けいのうら)」と呼ばれ、さらに古代日本三大要津のひとつ「敦賀津」として、渤海国や宋国をはじめ大陸諸国との交流拠点として繁栄しました。
また、さらに迎賓館・検疫所・貿易取引拠点等を兼ね備えた「松原客館」が置かれ、日本の最先進国際都市でした。
 戦国末期から、現在の東北地方や北海道・千島との交易拠点港として栄え「北国の都」と謳われて千石船が往来し、間口50m・奥行90mもある豪商の店舗がありました。

敦賀八景八ッ乃詠
近代以降の敦賀港
 敦賀港は、1899(明治32)年に開港場(外国貿易港)の指定を受け、1902年には、敦賀とウラジオストク間に直通航路が開設されました。日露戦争後は航路の重要性が高まり、政府は敦賀を神戸や横浜などと並ぶ重要港湾に指定しました。また、1910年に駐日ロシア領事館が開庁されました。さらに、1912年にはシベリア鉄道を利用して、ヨーロッパの各都市を結ぶ拠点港となり、新橋駅(東京)・金ケ崎駅間には欧亜国際連絡列車が運行され、名実ともに「東洋の波止場」として繁栄しました。
日満連絡船の出港風景

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